日溜りの窓辺でお茶を

40代おひとりさま適当暮らし

古賀さんのご冥福をお祈りいたします

携帯のネットニュースで先程知りました。
最近、テレビも地震の時以外つけていないので、情報が遅かったですが、驚きました。

病気とはいえ、早すぎる。
お母様のコメントが胸に迫りました。


古賀稔彦さんのことを知ったのは、確か高校生の時でした。
それまで柔道に興味はなかったのに何故か、というと「帯をギュッとね」という漫画です。
女子校で少年漫画を読んでいた私たちは、どちらかというとアウトサイダーでした(笑)

補足しておきますが、ウチの学校はのんびり穏やかで、イジメや仲間外れのような品のないものはありませんでした。
ただ、純粋培養系お嬢様が多い中、「お嬢様」になれない・なれなかった人間が自然と集まっていただけで(笑)
クラスメイトとも他のクラスの人とも仲良かったですよ。
それこそ(私が)知らない人に委員長に推薦されたくらい(笑笑)
中学持ち上がりが殆どの中の、数少ない高校からの外部生だったので、私が覚えていない人にも覚えられていたんです、当時。
天然お嬢様からすると、私のように公立共学上がりの野生児はいろんな意味で珍しかったんだと…
今振り返っても、人生で一番楽しくて平和で輝いていた時代でした。

そんな学校でしたが、類友っていうのはいるもので笑
学生だから欲しい本を全て買うことなんて出来ないので、いわゆる推しによって分担制にして回していたのです。
それ以外にもオススメを貸しあったり。
今時の学生さんは、下手すると私より自由なお金を持っていますけど…当時はお小遣い月5,000円でした。
もちろんバイト禁止だし、予備校でそんな暇もなく。
(学食がメインだったけど、月1回くらいは昔銀座5丁目にあった3階建?コージーコーナー路面店レストランに行って、すごいカロリー摂取していました)

そんな友人の一人が「面白いから読んで!」と持ってきたのが帯ギュでした。
分かりやすくて、ギャグが効いていて皆んなでハマって。
その中に、古賀選手(当時)が出てきたんです。

で実際にニュースや記事を見たら、超カッコ良かったんですよ!
偏見に満ちた柔道のイメージがパラダイム転換しましたね。
スポーツ中継やスポーツニュースなんて、当時はF1しか見ていなかったんですが、古賀選手が出ていれば柔道を見るようになりました
(中嶋悟氏のファンでした。グッズは引越しでもう無いと思うけど、おそらくCDはまだある)

バルセロナオリンピックもウキウキ見て。
(日本でのJOC公式応援ソングは「リラの咲くころバルセロナへ/光GENJI」でしたね)
2000年に引退されたのを契機にまたスポーツから離れてしまい…。

ネットに載っていた晩年近く?の古賀さんは、かなり痩せ痩けてらして、どんな人にも病は平等に理不尽に襲うのだなといたましいかぎりでした。

ご家族も、病気自体への覚悟はあったかもしれませんが、急変による逝去と記事にはありましたので、最期の覚悟までは至っていなく希望を持っていたかと思います。
今はまだやる事が多く慌ただしさで紛れているかもしれませんが、四十九日、半年と経って一段落した頃に、急に悲しみや喪失感もろもろが襲ってくるかもしれません。
ただの勝手な推測ですが、安らかなご冥福をお祈りすると共に、ご家族の心身の健康をこれも勝手ながらお祈り致します。



というのも、ウチの場合は四十九日くらいが節目でした。
父が突然倒れて救急搬送されて即入院してから1ヶ月。
途中ICUに入ったりもしましたが、一般病棟に戻り、検査の値が上向いてきたのでこの調子で頑張りましょう!と主治医に言われた2〜3日後に急変して他界しました。
本人は肺の出血が止まらず呼吸器を付けており、ずっと痛みを紛らわせる麻酔が点滴されていたので意識朦朧、入院して最初の頃しか会話もできないままでした。
病気発覚から1ヶ月の闘病で他界。

その後は手続きなどやらねばならない事が山程あって、遺族は悲しんでいる余裕さえなかったです。
他の家族のない後見のようになっていた親類も看護して見送りましたが、家族だとやるべき事の量が段違いでした。
それが一段落したと思った頃からです、振り返ってみれば。
母が認知症になったのは。
決して仲は良くない夫婦だったんですが、長年私という子を挟んで付き合い、共に暮らしてきた相手。
会話はたいしてない夫婦でしたが、母はそれでも父のための買い物をしたり、不満をぶつけたり、普通に用事で話しかけたり。
猫が虹の橋を渡り、私は仕事で家には寝に帰るだけ、そんな中でほぼ唯一の同居人であり世話をする相手だった父。
その存在がなくなったら、母は抜け殻になりました。
世話を焼く相手がいないので自分のことも適当になっていき、父の事後処理は殆ど私が主体で動いたのも悪かったのか、友達と出かけるのが好きだったのに引きこもるようになり。

3ヶ月後には言動がおかしいところがありました。が、身内を亡くした後はいつも不安定になっていたので今回もその影響だろうと決めつけていたんです。
まだ買い物も家事もできていたし(思えば私に頼ってくる率は上がっていたけれど)、私の通院に着いてきて、その後一緒にデパートなどに寄る、といった外出もできていたので。

それが、突然感情的になることや物忘れが増え、言動の不一致、家事の放棄など広がっていき、
日時の概念(感覚)が曖昧になり、私が会社に行っていることも分からなくなっていき、精力的な徘徊(徒歩/タクシー/新幹線)、
片付けと言いながら引き出しを全て出して中身を出す、突然怒り出す、物取られ妄想、昼夜逆転と夜間徘徊、他人の家のインターフォンを押す、といった典型的な症状へ。
介護認定を受ける頃には、時々私のことさえ分からなくなっていたし、今でも自分がいる場所が認識できていないというか、出身地と混同しています。
人生の大半を過ごした現在地より、記憶もしっかりしている娘時代まで過ごした出身地の方が、今の彼女の中では身近らしい。

正直、認知症になるなら父の方だと思っていたし母本人もそんな事を言っていたのに、まさかまさか、で、しばらく認知症だと思わなかった。
父の死も想定外で、母が認知症になるなんてことも全く想定外。
他の親類縁者に認知症になった人が今のところいないのもあって、全く自分ごとじゃなかったです。
自分の親が認知症、それを受け入れるまで葛藤や足掻き、時間がかかりました。

事実を受け入れ、認知症の症状と分かっていても、それでも毎日毎晩、自分という存在や過去までも否定され攻撃され続けるのはキツく、自死を何度も考えました。
(正確には、消えたいと何度もねがった。寝ている間に心臓止まらないかな、とか、自我がなくなってしまえばいい、とか、事故に遭ってもいいや、とか)
今はお金はかかるけど、施設で身の安全を確保できて、私に依存していた生活を変え、何とか母も私も生きています。

だからこそ、古賀さんのお母様の、親が子を見送るという逆なんて、という想いが痛いほどでした。

介護はプロの手を借りないと共倒れします。
だから母の帰りたいという願いだけは、聞き入れる事ができません。
母を在宅介護となったら目が離せないし、いちいち呼ぶし手がかかるので会社を辞めなくてはいけなくなって、そうすると収入がなくなってしまい負のスパイラルへ。
介護は育児と違って成長はなく、むしろこれから更にできない事が増えていき、お金もかかるから。

心は痛むけど、それでも「私の人生は親のためだけにあった」とはしたくないのも本音。
今の自立した生き方も手放したくはない。

だからせめてもの親孝行として、自分を見送らせないように気をつけて生きようと思います。