3.11 あれから10年 あの時
10年前の14:46
何が起きるかなんて全く想像も付かなかった。
いつものようにオフィスの自席にいて、大阪の人と電話中で。
最初は「また地震か」としか思わなかった。
それが、ビルが唸るようにミシリと響いたかと思ったらグワっと横に揺れた。
コレはそこそこ大きいかも?と電話を切ろうとして先方に「は?」と怪訝に返された。
揺れは一気に大きくなって、もはや横揺れなのか縦揺れなのかも分からず、無理矢理電話を切って居室のドアに走った。
ICカード認証により完全施錠されているフロアで、建て付けが狂ったりシステムエラーで閉じ込められたらヤバイと思ったから。
だけど揺れはどんどん激しくなって、いつものように直ぐにおさまる気配がない。
身長体重共にそれなりにあって、小柄でも華奢でもない私が、トランポリンの上を歩くかのようにしか、ヨロヨロにしか移動できなかった。
それを見た元ラガーマンの同僚が来てくれて、私の意図を伝えたら代わりにドアを開けて押さえてくれて、机の下にと言ってくれた。
だけど、私の席は当時大きな窓ガラスを背にしていたから1ブロック内側の同僚の机に一緒にしがみ付いて。
その時に脳裏に浮かんだのは、幼い頃に被災した宮城沖地震。
あれと同等かもしれないと思った。
当時はまだ幼かったから、地震がどれくらい続いたのか、時間的感覚は記憶にない。
けれど地面が波打って立っていられず、友達の家の家具が次々バタンバタン倒れていくのを、慌てて来た大人に抱えられながら呆然と見ていた。
その時、隣にいた友人が悲鳴を上げた。
彼女が指差した先は、うちのオフィスどころじゃない、たぶん45階はあるような高層ビル。
何かが振り子のようにビルの側面で揺れていた。
目を凝らして見たら、ビルの窓清掃のゴンドラだった。
見間違いでなければ、あの小さなゴンドラに乗っていたのは2人。
それが、まるで遊園地のバイキングのように、容赦なく左右に大きく振れ続けていた。
私たち以外にも気付いた人たちからも悲鳴があちこちから上がった。
でも、だからといってどうにもできない。
自分たちだって什器にしがみついてガクガク前後左右が分からないくらいシェイクされている
ただただ見てることしかできなく恐怖しかなかった。
やっと揺れがおさまった?と気付くまでどれくらいかかっただろう。
ああいう揺れの中に居続けると、脳がしばらく揺れているかのように錯覚し続けるので、ブラインドや掲示物が動いていないかを皆んなで見て確認した。
多分、小一時間は平衡感覚が戻らなかったと思う。
揺れがおさまって、フロア内は常日頃から全社でクリアデスククリアスクリーンと言っているだけあって特に落下物もなく、ホッとして席に戻りながら雑談していた。
その時に高層ビルを見たら、ゴンドラ自体が見当たらなかったので、きっと今のうちに!と引き上げたのだろう。
当時はまだスマホは普及しておらず、会社では固定電話とPHS、個人はガラケーの時代だった。
そんな中で、みんな家族の安否確認に電話し始め、実は割と地震直後は電話がすぐに繋がったので、無事を聞いた人から安堵していた。
私も家に電話して、猫と家族の無事を聞いて胸を撫で下ろしていた。
そこまでは、まだただの「いつもよりちょっと大きな地震」くらいの認識でみんな笑顔で仕事に戻ろうとしていたくらいだった。
ゴンドラが下がっていたのとはまた別の高層ビルから黒煙が上がっているのを見て、「あの辺って何の建物だったっけ?新聞社の方じゃね?」とか他人事な雰囲気だった。
なにしろ一般のオフィスにはテレビもラジオもない。
今のようにオンデマンドマルチメディアがポンポン上がってくるような時代でもない。
Wi-Fiだって一般になかった。
オフィスという場所は、今に比べてかなり情報に取り残されやすい環境にあったと言えるのではないだろうか。
子供を預けた保育園がどうなっているかも分からない。
共働きで近所に親もいないと状況を聞くこともできない。
ただ、災害に弱い東京都心だから間違いなく交通インフラは須く止まる、再開までかかる、ということだけは予想できた。
同僚の一人は、元々時短勤務で16時上がりだったけれど、少しでも時間が惜しいと30分くらい早退して
「今からドンキでチャリ買って帰る!」
と上司の許可を得て会社を飛び出して行った。
けれど他の大半が、会社から退避(帰宅)命令もないし、私を含め普通に雑談は続きつつも仕事に戻って行った。
ワンセグ対応携帯を持ってニュースを見ていた人もいたが、それこそ近くの黒煙をあげるビルをヘリから写したものだったり、都心部の揺れの情報程度で大した報道はなかった。
おそらく報道関係さえ、時代もあるが何が起きているのか把握できていなかったのではないだろうか。
ワンセグ自体オフィスビルは電波の入りが悪くバッテリーもくうため、仕事に戻るために皆早々に切っていた。
そして迎えた定時、17:30。
ネットニュースやメール通知で、予想通り交通インフラは全滅しているのが分かっていたので、あちこちで「どうする?」という会話が交わされていた。
どうにかして帰るという人、会社に泊まるという人、しばらく会社に残って様子を見て考えるという人。
私は「歩いて帰る!」一択だった。
というのもこの日は金曜日、翌日が平日であれば確実に会社に泊まることを選んだ。
でも、元々歩くことが苦じゃないうえ、翌日に電車が復旧する保証もないのに椅子で寝たくなかった。自分のベッドで寝たかった。
同じように歩いて帰る事を選択した同方向の同僚たちと、GoogleMapを印刷してオフィスビルを出たのがちょうど18時。
今ならスマホで簡単にナビできるけど、当時はガラケーだし通信遅いし地図は重いしバッテリー消耗激しいしで、当てにできなかった。
外に出たら、同じような人が道にいっぱい。
何故か、殆どが同じ方向に向かって歩いているという。
ところどころ、ガラスなどの落下物でKeepOutの規制線が張られた道もあったけれど、ぱっと見都心で何か被害があったようには見えなかった。
道路は明るいし、ただ道を埋め尽くす人の数が異様だった。
特に今でも思い出すのは隅田川付近。
まるで花火大会?という人混みと明るさ、沿道の飲み屋の賑わい。
ギュウギュウの人の中には会社から支給されたと思しきヘルメットを被った集団もいたので、それが花火のような浮かれた場面じゃないことを辛うじて示しているかのようだった。
ギュウギュウといえば歩道だけじゃない。
車道に至ってはみっしりと、巨大な縦列駐車場か、というくらい隙間なく車が“止まって”いた。
歩行者は歩く。どんどん歩く。
車は全く動かない。横から歩行者にどんどん追い抜き追い越されていく。
自家用車や社用車はともかく、タクシーに乗っていた人はどうなったんだろう。料金は一体…と今でも身近にいなく誰にも聞けないので謎のままである。
会社の同僚が早退してドンキに自転車を買いに走って行ったが、実際環七通りにあった自転車店には行列ができていた。
人気のラーメン屋やらスイーツショップやらベーカリーだのの比ではない。
後日に同僚に聞いたところ、15:30過ぎの時点で既に「ギリで買えた」レベルだったらしい。
後にも先にも、こんなに一気に大量に自転車が売れたのは(完売したのは)この日だけだろう。
そんな列を横目に、大通りをザクザク歩き進む。
途中で同行者の一人がラーメン屋に騒いでいたが、他のメンバーは「行きたければ一人で行け。置いていく」と、にべもなかった。…私も含め。
だって、電車通勤でさえ1時間ちょいかかるところを歩くのは初めてなのだ。
どれくらいのペースで、どれくらいで着くのかも検討がつかないまま歩き続ける。
休憩する場所も余裕もない。
通り過ぎた地下鉄の入り口もシャッターが降りて封鎖されていた。
3月にしては冬に逆戻りの寒い日だった。
だから、その日は珍しくパンツにヒールの低いロングブーツ、そしてファーのパーカー付きコートを着ていた。
普段通りにスカートにタイツだけだったら、凍えたかもしれない。
そういう意味では、不幸中の幸いで夜間に歩き通す条件には恵まれていた。
後から知ったけれど、パンプスでは足が痛くて歩けず、脱ぎ捨てた人もいたというので。
さらに食い意地が張っていたおかげで、鞄には未開封のチョコレート菓子が2袋入っていた。
それを同行者と分け合って、気合を入れた。
避難時にはチョコレート、間違いない。
だから体力も気力も持ったんじゃないかと思う。
サバイバーなアウトドア趣味を持つ同行者からは感謝された。
途中、ベローチェだったと思うけど、空いていたので休憩に立ち寄り。
食べ物はほぼなかったけど、暖かい飲み物は提供されていたので心底助かった。
ベローチェの紅茶をあれほど美味しいと思ったことはない(笑)
ちょうどトイレも全員済ませられて、15分くらい休憩して再出発。
この段階で徒歩2時間半くらい。
少しずつ道が分かれていくのか、歩道の人口密度が減っていっていた。
だんだん道が複雑になって来て、携帯2台持ちしていた同行者が、比較的電波が繋がりやすい方で地図アプリを起動して、確かめながらの移動になっていく。
「朝、時間なくて机に置きっぱなしにして来たコーヒーカップ、割れてるんだろうなぁ…」
とか、
「浦安市が液状化しているらしい。けどディズニーランドは空港レベルだから問題ないらしい」
と、些細なようなそうでないような会話をポツポツしながら、とにかく全員ひたすら足を前に出し続けていた。
止まったら終わりだ、回遊魚のような気分だった。
歩き続けてさらに2時間くらいした頃か。
明々としたファミレスが見えた。
「ちょうどいい、最後の休憩していこう」
誰ともなくそう言って入ってみたら、それなりに混んでいた。
といっても休日のオンタイムならこれくらいあるよね、程度だったので並んで待つことに。
思ったほど待たずに席に案内された。
食べ物の提供がないから回転が早いのか。
ここでは確かホットココアを頼んだように思う。
順番にトイレも行き、会社の安否確認システムに個人携帯から応答したり。
この時の同行者は、みんな年上の男性だったこともあるのか、始終落ち着いてまったり会話していた。
というか社内での雑談と大差なかった。
ファミレスにもテレビはないし、なーんにも状況が分からないのだ。
交通機関が全滅していて車道は渋滞というより停滞していて、とにかく歩くしかなく、何故か居酒屋は空いていて満席だ、ってくらいしか。
暖かい店内で温かい飲み物をいただいてひと心地つき、これまた20分くらいで出ようと会計に並んだその時。
「断水したため、お飲み物も提供できなくなりました!」
と店員さんが叫んだ。
並んで待っていた人たちは悲愴な顔で「ウソだろ⁉︎」と騒めき、私たちは「…ギリだったね」と顔を見合わせ、そっと会計を済ませて店の外に抜けていった。
実は、そのファミレスから数キロ先のところが、私と同行者の分岐点だった。
私のガラケーもバッテリー消費が早いのでギリギリまで使えないからと、それまで先導してくれていた同行者が、方向や道を丁寧に説明してくれる。
が、普段から車に乗らない(免許が無いので乗れない)ため道自体をあまり知らず、でも足で生きてきたせいか野生の勘は働くので、いつも最終的には辿り着けるという野生人な私を心配そうに(不安そう、という方が正しいか)、暗い中見えなくなるまで手を振って見送ってくれていたのを覚えている。
そんな私でも地名と方向と、どこに出ればいいかは分かっていたので、勘と記憶7:3の割合で一人歩き出した。
この頃には、同じように歩いている人はパラパラとしかいなく、それでも街灯が少なく怪しい道路迂回用小道もある中で、見知らぬ他人でも同じ境遇の姿があるのは心強かった。
集中して歩くために、イヤフォンを挿すこともなく、ひたすら黙々とガツガツ歩き続けた。
よく知っている道に出た時にはホッとしたと同時に、ここから先の距離と時間がハッキリ認識できてしまって逆にキツかったように思う。
みんなでザクザク歩いている時は、先がどれくらいか見えなくてアバウトでも何も感じなかった。
日常の風景の中に入って、やっと現実味が出たというか、それまでどこか一枚紗がかかったような感覚だったのが、唐突にリアルに鮮明になったのかもしれない。
「うえ゛〜まだ遠いじゃん!」って。
そこからは、もう無の境地だったとしか言いようがない。
ただ、家に帰ってベッドで寝るんだ、それだけを思っていた。
あの頃はまだ飼っていた猫も生きていて、とにかく会いたかった。
モフモフのお腹に顔を埋めたかった。
(そして蹴られてシャーされるまでがセット)
家が視界に入るところまで来てからが、一番足が重くてキツかった。
多分、見えた時点で「帰れた」と気が抜けてしまったんだと思う。
やっとの思いで玄関にたどり着き、自分で鍵を開けて部屋に入った。
…いつもと何一つ変わらない風景があった。
当時実家住まいで、父は既に寝ていたし、母は猫とうたた寝していた。
「帰って来たよ〜〜!」
と猫に飛びついたが、案の定ウゼェって顔で足蹴にされた…。
自室の机には本やCD(当時はサブスクなどなくまCD音源をPCに取り込む時代)、その他こまごまとしたものをタワー状に積み上げてあったのだが、、、
何一つ!全く!崩れも動きもせず、そのままだった!
私の積み能力スゲェって自画自賛した。
自宅は何も変わらなかった。
母も私も、父が先に転勤先へ赴任していて不在の時に宮城沖地震に被災している。
そのため、家具の設置や物の置き方など、普段から地震が来ても被害がないように、というのが無意識に刷り込まれている。
…机の上にタワーは別として。。。
むしろ今回は断水も停電もガス漏れもなくて良かったね、みんな無事で良かったよかった、そんな感じだった。
当時は余震が続いて夜も洋服を着て寝ていたし、倒壊とか危ない時はすぐ逃げ出せるよう枕元に持ち出しバッグみたいのが置いてあった。
水道と電気が復旧してからはポットで沸かしたお湯を張ったタライで、庭でお風呂してたからね…子供だったから…
ガスが一番遅かったものの仙台市内でも復旧は早い方だったらしく、友人一家がうちのお風呂に入りに来ていた。
子供ながら、何度も夜中に目を覚ましていた、被災からしばらくは。
恐怖という感情はなかったけれど、本能では危機を感じていたんだろうな。
さて家に着いた時、0:30。
18時に会社を出て、6時間半。
間に2回計40分くらいの休憩はしたものの、それ以外は横殴りの風の中、それこそ荒川に落ちるー!と恐怖しながら、寒さにかじかんだ手を擦り合わせながら歩き続けて約6時間。
体は自覚以上に冷え切って顔色も白かったらしい。
お風呂の用意をしてくれていたので、温かいお湯に浸かり、あのじわーっと広がる感覚は忘れない。
物理的な血液循環と同時に、本当の安堵感。
睡眠障害の私が、その夜はアッサリ眠った。
筋肉痛と共に翌日起きたら、昨夜までの自分たちが思っていた世界とはすっかり変わり果てていた。
昨日の地震は規模どれくらいだったんだろう?なんて呑気に部屋のテレビをつけた時の衝撃。
画面の中で、流されていく家、建物の映像。
映画のCGのようだった。
最初は真白になって理解できなかった。
認識したことを現実と捉えられなかった。
宮城沖地震では倒壊やインフラ打撃は大きかったけれど、記憶に残るような津波はなかったから、初めて見る、しかも遠い国ではなく友人知人がいる場所での事。
これは現実だと脳が情報消化して、その上で見れば見るほどに逆に「信じられない」と思えてしまった。
自然の力を前にに人間は無力だ。
理屈では分かっていた。
でも現実を見せつけられたら、受け入れられない。
友人に安否確認の連絡さえ怖くてできなかった。
海外のハリケーンや嵐の情報を見ても、薄情だけれど、やっぱり他所ごとだった。
それなりに同情や悲壮感、やるせなさは感じても、それなりでしかなく。
やっぱり人間というのは我が身か身近で起きなければ実感などできない愚かな生き物なのだと思う。
とはいえ当事者ではないので、実感したなんて、それすら烏滸がましいレベルでしかないのだけれど。
当日は自分が帰宅するのに精一杯で情報を追えていなく、親も翌日起こしに来ることもなく寝かせてくれていたから、世間の時間に追いついた時に知ったの、は呑気に定時まではと仕事していた同時刻の惨劇だった。
しばらくしてから、宮城の友人知人に直接または間接的に安否を尋ねた。
結果的に、私が直接知る人は全員命は無事だった。
ただ、家や親族や同僚が津波の犠牲になってはいた。
会社の友人にも宮城出身が結構いて、ある人の家族は、命は助かったけど家は倒壊、土地は塩害にやられてしまい住むことができなくなったと聞いた。
ご両親は体育館の避難所生活をしていたのを、同僚と兄弟が車で迎えに行って東京に連れて来たけれど、隣近所の知り合いが避難所生活をしているのに、自分たちだけ安全なところにいる事に呵責を覚えてしまい、耐えられなくなって結局また被災地に送っていったそうだ。
その後最初の仮設住宅に入り、元の自宅は塩害のため建て直しもNGなので、やがて2〜3年して被災者向け住宅へと移っていった。
類似の話は報道でも耳にしていたけれど、当人から聞くと本当にやり切れない。
自分だけだ、とか、あの人は逃げた、とかいう感情的なものも難しい問題だけれど、もっと切実にキツい!という話があった。
友人の実家のあったあたり一帯が住居畑も全滅なのは災害のためなのに、だから売って手放すこともできないのに、固定資産税は登記されているから延々払い続けないといけない、と。
友人や兄弟たちはみんな関東にいて、実家にいたのは年老いたご両親のみ。
「自然災害の結果、家を建てちゃダメって勝手に決めるなら固定資産税免除とか減額とかして欲しい。もし将来的に土壌を回復させる画期的な何かがあったとしても、その頃にはもう両親も近所のおっちゃんおばちゃんも、もういないよ。もしかしたら自分も」
と、嘆いていた。
あれから、今や不動産が枷になる時代だと、持家に興味があまりわかなくなった。
いつ関東大震災が来てもおかしくないと小学生の頃から言われ続けていたけれど、本当の万が一の時にないと困るものは?考えたら、日常の荷物が格段に増えた。
中央区、港区のオフィスビルにいることが多いだけに、関東大震災か南海トラフかで津波が来たら今度こそ帰れないな、高層ビルだか流されないとしても地上は…と普段から考えるようになった。
防災用品、備蓄を兼ねたパントリーを頻繁に見直すようになった。
備蓄専用食品は、うちでは無駄になるだけと判明したので、普段から食べるものでロングライフのを買うようにしている。
3.11のあと、余震が頻繁にあった。
あれ以来、緊急地震速報が携帯からなり響くたび、体が勝手に強ばり嫌な心音を立てる。
全く揺れない、遠方の地震でも速報が鳴り響いたことも何度かあった。
けど、だからって慣れちゃいけない、油断しちゃいけない。
オオカミ少年になってはいけない。
あの年は3月に大地震
9月に愛猫が虹の橋を渡り
その後大型台風直撃で途中で交通機関が止まり、またもや暴風雨の中歩いて帰る羽目になった
あれから10年も経ったのか
まだ10年しか経っていないのか
塩害にあってしまった、あの地域は苺が美味しかった
でももう食べることはできない
お土産で貰う苺のお菓子があんなに好きだったのに、記憶も薄れてしまった
復興はまだまだできていないし
政府は復興税をどう使ったのか不透明だし
さらに新型コロナときた
今日、NHKの中継を見ながら1分間の黙祷を捧げて、陛下のご挨拶を拝聴しながら
過去を想い
未来があるとは限らない、いつまで生きるのか
どう生きるか
考えた日だった。
シリアスな事を考えているのに、奮発した厚切りベーコンをひたすら焼いては食べている自分…
横には筋トレグッズ
嗚呼、矛盾